飛行機の日とは?

1903年12月17日、ウィルバー・ライトとオーヴィル・ライト(ライト兄弟)がアメリカ・ノースカロライナ州のキティホークで、動力飛行機の初飛行に成功しました。

当時の記録によると飛行テストは4回に渡って行われ、1回目は12秒、4回目の飛行時間は59秒であり、飛行した距離は256mでした。

日本国内の初飛行はいつ?

ちなみに、日本では1910年(明治43年)に東京・代々木練兵場において徳川好敏(よしとし)、日野熊蔵(共に陸軍大尉)が初飛行が行っております。

余談ですが徳川好敏は「清水徳川家」の人物です。即ち日本で初めて空を飛んだ人物は「徳川家康の子孫」ということになります。

※清水徳川家・・・徳川重好(9代将軍家重の次男)を祖に持つ徳川将軍家の分家。御三家に次いで将軍の後継者を出す権利を有していた。

その後、この飛行実験の成功を記念し、1940年(昭和15年)9月28日は「航空日」と制定されました。その翌年から9月20日と決定され、終戦後は一時廃止されたものの1953年(昭和28年)に復活し、現在に至っています。

日本の航空関係の記念イベントは、一般的に前者の12月ではなく、後者の9月に合わせて行われています。

日本人の多くが知らない「飛行機の発明者」二宮忠八とは?

二宮忠八(にのみや ちゅうはち 1866(慶応2)年~ 1936(昭和11)年)は、飛行器(※発明当時は飛行「機」ではなく「器」と名付けられた)の開発を行った人物です。

徴兵制が存在していた明治時代、軍に在籍、カラスが飛ぶ様子を見て飛行機の原理を思いついたと言われています。

その後、模型飛行機を開発した後、軍に実用化の提案と研究資金の提供を申し出たものの、その返事は「そんなもの作れるはずがない」。即ち却下というものでした。

やむなく民間の製薬会社で働き、研究資金を蓄えた後にようやく私財を投じて飛行機の開発に取り組む中、動力源(エンジン)の調達に苦労している中、ライト兄弟による初飛行のニュースを知り、失意の中で飛行機の開発を終えることになります。

何が明暗を分けたのか?

ライト兄弟が成功し、二宮忠八が理論上は先駆けていたものの、試作品の開発に出遅れた原因に「研究環境の差」が挙げられます。

彼等は自転車屋を営んでおりました。これは飛行機の試作品を作成するノウハウとして非常に役立ったのに加え、当時の自転車は現代のように大衆化されたものではなく、非常に高価なものでした。

日本においても明治時代、徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜公が自転車の愛好家であったことで知られる他、戦前は大卒初任給を上回る程の高級品だったことで知られています。

裏を返せば、これは自転車屋というものが非常に高価な品物を取り扱うものであり、顧客の多くが富裕層であったことを意味するものだといえるでしょう。結果として、これがライト兄弟の飛行機開発において、資金上は大きなアドバンテージとなっていたことが伺えます。

これに対し、二宮忠八は当初、軍をスポンサーとする開発を試みました。当然ながら軍隊、即ち国家が後ろ盾につけば研究資金においては全く心配する必要がなかったわけです。

しかし、航空機の開発という、いわば「前代未聞の研究」な上に、その提案者が大学の工学博士といった権威のある存在でなかったことは痛手でした。結果として、彼は資金を得るために民間企業で長期間働かざるを得なくなります。

成功者の多くは「分業制」

ライト兄弟というのは、その名が示す通り「兄弟で開発」を行っています。

実はこの「兄弟」というのは非常に重要で、現代のように研究開発が分業化されていない時代、多くの研究は兄弟や親子といった「最大の理解を示してくれる一族」によって行われることが多かったのです。

例えば、

・飛行機の「ライト兄弟」
・気球の「モンゴルフィエ兄弟」
・映画の「リュミエール兄弟」

また、日本においても親の豊田佐吉(無停止杼換(ちょかん)式自動織機(G型自動織機))から子の章一郎(トヨタ自動車)へと受け継がれた事例が存在します。

これに対し、陽の目を見ずに終わった発明家は「孤軍奮闘」であるケースが少なくありません。二宮忠八もまた、その研究環境はまさしく「四面楚歌」でした。

例えば飛行機の設計を実際に作ろうとしても「設計図通りに作れる人が身近にいない」状態です。もし仮に信頼できる技術者を雇ったとしても、高額な報酬に加え「アイデアを盗まれる」不安が常に付きまとっていたわけです。

圧倒的な開発コストの差

加えて、二宮忠八にとって逆風だったのは「動力源(エンジン)の調達」でした。

19世紀末~20世紀初頭にかけ、米国では今日の主要な自動車メーカー(GM、フォード等)が創立された時期であり、発動機(エンジン)の開発も多く行われていました。そのため、これらを入手する環境は非常に整っていたわけです。

ライト兄弟は、自転車で培ったノウハウを活かし、飛行機の骨格「シャシー」の作成を容易に行うことができました。加えて自国で発展しつつある自動車産業を背景に、多くの技術者たちが時間を資金をかけて開発した「完成品の」発動機を容易に入手することが可能だったわけです。

一方、日本ではそれらを輸入によって何とか入手が出来た状態です。当然ですが非常に高価なものでした。

結果として、飛行機の発明は機体の設計から動力の開発まで「全て一人でやらなければならない」というハンデをもたらします。

仮に、もし軍の研究委託という方式をとっていた場合、

「(軍を通じて)発動機の入手は容易だったのではないか?」
「機体の設計は(軍から派遣された)技術将校に任せればよかったのでは?」

そうすれば、ライト兄弟に先駆けて「日本人が飛行機の開発に成功した」という功績を勝ち取ることも可能だったのではないでしょうか?それを考えると「とんでもなく惜しい事をした」と考えてしまうわけです。

ライト兄弟の不遇な晩年

このように書くと、二宮忠八は不遇の生涯を送った一方、ライト兄弟は栄光に満ちた生涯を得たようにも思われます。

しかし実際はそうではありません。飛行機の発明という偉業を成し遂げたにも関わらず、ライト兄弟の晩年は非常に不遇なものでした。

「空を飛ぶなんて不可能」

実は日本だけではなく米国でも同様で、実際に飛行実験を成功させたライト兄弟も長らくその功績を評価されませんでした。

これは当時の実験が成功したにもかかわらずアイデアの盗用を恐れたために公表が遅れたため、実際に彼等のパイオニアとしての知名度がそれほど高くなかったのも原因だといえるでしょう。

後に飛行機の存在が認知されるようになると、民間の一自転車屋であった彼等よりも「後追いである」大学や政府といった機関の研究者の功績が評価されるようになります。遂には後追いの研究者が「飛行機の発明者」を名乗るに至ると、その地位を巡る裁判に長い年月が費やされました。

1928年、「世界で初めて飛行実験に成功した」彼等の機体であるライトフライヤー号はイギリスのロンドンの科学博物館へと渡ります。この展示によってライトフライヤー号の存在がアメリカ人の間で再評価されることになります。

この評価を受け、1942年にようやくアメリカへと「帰国」する決定がなされました。ただ、この時期は第二次世界大戦の最中だったため、実際の返還は戦後の1948年になって行われています。

初飛行成功から45年。既にウィルバー・ライトは世を去っており。また米国に機体の返還する手続に合意したオーヴィル・ライトも1948年の1月に亡くなっております。飛行機の発明者である二人は1948年の12月、米国のワシントン国立博物館の展示を見る事はなかったのです。

自分は飛行機を発明したことを後悔している

晩年、オーヴィル・ライトは「自動車王」として知られるヘンリー・フォードに対し、飛行機を発明したことに対して後悔をする書簡を送っていました。

もし彼等が飛行機を発明しようとさえしなければ……彼等は平凡な自転車屋として生涯を終えていたのかもしれません。しかし、政府や研究者達から目の敵にされ、裁判に長い年月を費やすこともなかったのではないでしょうか。

また第二次世界大戦時、自分達が発明した飛行機によって多くの人々の命が失われたことに対し、非常に残念に思っているという内容の書簡を残しています。

二宮忠八は、戦前は多くの人が知っていた

飛行機が本格的に戦争で使用されたのは第一次世界大戦(1914~1918)です。

同時期、日本では中島知久平が中島飛行機(現 SUBARU)を創業(1917年)し、東京大学では飛行機研究所が創設されます(1918年)。

飛行機の存在と有用性が軍部で認められるようになり、これによって二宮忠八の研究に再び注目が集まるようになったわけです。それによって数々の賞を受賞し、また当時、研究資金の提供を断った長岡外史は退役後にもかかわらず、後に直接本人の下を訪れ謝罪しています。

昭和12年、彼は国定教科書にも掲載されるようになり、多くの国民が知る事となりました。

飛行機研究を挫折した彼はその後、再び製薬会社に戻り、後に大阪で食塩会社(マルニ)を創業。また、京都に飛行神社を創建。現在も多くの航空関係者、そして宇宙開発関係者等が安全祈願のために参拝しています。


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